平将門の首塚


平将門の首塚をご存知だろうか。
大手町駅から徒歩数分のところに、ビルの谷間に
ひっそりとたたずんでいる強力なパワースポット
である。

10世紀前半承平5年(935)関東の武将・平将門は、父の残した領地と
女性問題を巡り一族の内紛が勃発。
この際、叔父や親戚の3人の子供を殺すなどの所行に及ぶが、
結局938年にこの内紛を収めることに成功するのをきっかけにして
反乱を起こし関東を制覇。新皇と称し公然たる朝廷の反逆者となり、
天慶3年(940)平清盛と藤原秀郷の連合軍の前に敗退し、
流れ矢に当たって討たれた(天慶の乱)。

その後首は、京都都大路でさらし首となったが
首はいつまでたっても腐らず、その首は目を閉じることがなく、
そればかりか噛みつきそうな形相でわめき続けた。
その後3日目には怪光を放ちながら夜空に舞い上がり、
胴体を求めて東の空に飛んでこの地に落ちたという
民間英雄伝説は、鎌倉時代の末期には成立していたらしい。
石燈篭は、首塚の上に将門の墓と称されて
置かれていたものが現在に伝わっている。

ちなみにあまり知られていないが、平将門は北斗七星を信仰しており、
北斗七星の呪術を使って、朝廷軍と対峙したらしい。
そのためだろうか、将門関連の伝承には数字の7が深くかかわっている。
千葉県市川市にある薮知らずは将門の影武者が死んだ場所とも
言われているが、この影武者が7人。
また西多摩にある七つ石という場所も、将門が7人の
影武者を使って、天敵・俵藤太をかく乱した場所。
さらに、都内にある将門ゆかりの7つの神社、
鳥越神社、兜神社、将門首塚、神田明神、筑土八幡神社(津久戸明神)、
水稲荷神社、鎧神社を結ぶと北斗七星の形になる。

何名かのスピリチュアルなメンターたちからのメッセージに
よれば昨年この平将門のエネルギーの封印が解けているとの
こと。これが何を意味するかは分からないが、今でも温かく
関東一円の人を守ってくれているエネルギーである。
しょうもない芸人の一言でブームになってしまった明治神宮の
とある場所なんかよりもずっと協力なパワースポットであるので
もしお近くにお寄りの際は、是非合掌していただきたい。

<由来>


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