知るということの是非


今、僕達は多くの通信手段を持っていて
世界中で起こっていることを瞬時に把握する
ことができる世の中に生きている。

僕が小学生の頃には、携帯電話もインターネットも
無かった。すごく限定された情報の中で、自分達の
生活を送っていた。

江戸時代ともなれば、車も無ければテレビ・ラジオも無い。
鉄道もなければ電話も無いのだから、ほとんどの人は
地域に密着してそのまま一生を終えていたのだろう。

情報が多くなり、たくさんのことを知ることができること
一見便利なように思えるが、果たして本当にそうなのだろうか。

江戸時代の人の方が実は今の僕達よりも幸せ感を感じて
いたのではないだろうか。

そもそも情報が多くなる=比較対象が多くなるために
本来であれば自分の中の絶対指標である幸せという感覚が
いつの間にか、「誰か」と比較して自分は幸せかどうかという
相対評価になってしまってはいないだろうか。

物や事実そのものに幸せかどうかを図る尺度は無い。

そうした客観的事実に対して、自分がどう感じるか、そこに
幸せ感の根源がある。

情報化が進みすぎたことで失ったものがあることを
僕達はもっと認識しなければならないのかもしれない。


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