仏教と量子力学の関係について


現代科学技術の基本理論である量子力学と、
仏教の基本的考え方に親和性があるという説を
今日は論じてみたい。

量子力学では物質の、ミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とする。
測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけだが、端的に、
それが「色」と「空」なのだと考えても、基本的には間違いではない。

ただ問題なのは、「粒子であり、しかも波である」という事態は、
通常の理性には理解が困難だということ。
これは、波が粒子で成り立っているということではない。
最小の単位が「粒子であり」しかも「波である」ということだ。
これは固定的実体か流動的事態か、ということになるが、
普通はこれが両立するとは考えられない。

しかしこの問題は、じつは
「色即是空」でしかも「空即是色」だという状態を
端的にあらわしていると考えられないか。

般若心経の「色即是空、空即是色」は、量子力学でいう
「粒子と波動の二重性」と同じことだと考えられないか。

「色即是空」というのは、深い宗教的洞察をズバリ言い切った表現であるが、
その意味する含みは多様である。二つの和訳を引用してみる。中村元訳では

「この世においては、物質的現象(色)には実体がない(空)のであり、
実体がないからこそ、[物質的現象が]物質的現象で[ありうるので]ある。」

玄侑宗久訳では

「あらゆる物質的現象には自性がないのであり、
しかも自性がないという実相は、常に物質的現象という姿をとる。」

ここで、「自性がない」とは、「あらゆる現象は単独で自立した
主体(自性)をもたず、無限の関係性の中で絶えず変化しながら
発生する出来事」と説明されている。

日本語訳してもらってもなかなか分かりづらい。
この理解しにくいことを、説明しようとして、量子論で言われる、
粒子・波動の二重性と同じこと、というわけだ。

量子力学は、原子レベルの物質の振る舞いを記述する基礎理論として、
1925年にハイゼンベルグとシュレディンガーによって提唱され、
20世紀科学の革命をもたらした。
元素の化学的性質を原子核の回りの電子の振る舞いとして説明し、
化合物の化学的性質、金属や半導体などの物性の原理的な説明を
与え、それは結果として、エレクトロニクスなどの大発展を
もたらした。

原子の大きさのレベルの現象を量子力学が扱うわけだが、
原子レベルでは、もの(たとえば電子)は奇妙な振る舞いを示す。
たとえばテレビのブラウン管のスクリーンを光らせているのは
電子だが、それはこの場合粒子として振る舞う。
一方、たとえば物質中の電子の振る舞いを説明するには、
粒子と言うより波動としての取り扱いを必要とする。
あるときは粒子、あるときは波動という、とらえどころのない性質を
示すわけだ。それは原子レベルでのものの実体が、私たちの
日常的な感覚で捉えられ難い代物だ、ということに由来する。
それを量子力学は難なく記述し、どのような現象にも、
いまのところ、正しい結論を与える。

この量子的な振る舞いが、色即是空とどう対応するか。

粒子と波動の二重性をもって、「物質的現象に実体がない」と
いうことの類比とするのには無理がある。
量子力学では、べつに実体がないわけではなく、
ミクロな物質の振る舞いを日常感覚に置き換えて表す
適切な言語を私たちが持っていないだけだといっていい。
ミクロ世界の物理的対象としての実体があり、
それを正確に記述できるわけである。

たしかに量子理論には奇妙なところがある。
およそ原子レベルのすべての現象を正しく説明する。
今後、未知の現象が出ても、それは必ず量子力学により説明されることは
間違いないと、ほとんどの科学者は信じている。
ところが量子力学の解釈となると、意見が分かれる。
いわゆる「観測問題」と呼ばれるものだ。

大部分の科学者は、そういういわば半ば哲学的な問題に
かまっている必要はない、と考えている。
現象を説明でき、予測できれば、それでいいのだとしている。
量子力学の解釈問題がどうであれ、彼らが道具として
使っているこの理論への信頼性は揺るがない。
それが宗教の議論の場に引っ張り出され、
「色即是空」などと関連するかのように述べられると、
「え?、それ、自分が使いこなしている量子力学のこと?」と、
きょとんとしてしまう。

もう一つ、科学の探究や適用と、科学が何を意味するかを
語ることとは、別のことだということ。
往々にして著名な科学者が、自分の発見の意味するものを
一般の人向けに普通の言葉で語ろうとする。
その時、その科学者は科学の閾を越えて語っている。
それを人々は真に受けてしまう。
そこに誤解がしばしば生じているようだ。
例えば、玄侑宗久は先にあげた本の中で、何度も
ハイゼンベルクやボーアの書いた言葉を引用している。

「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、

「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と

書かれている。

自らの思想がいかに東洋に傾斜しているか、
またそこを目指すべきだ、
という自覚も彼には明確にあったのだろう。

ハイぜンベルクは講義録『物理学と哲学』(1955〜56)のなかで、
「第二次世界大戦以降における物理学への日本の大きな貢献は、
おそらく、極東の伝統的哲学思想と理論の哲学的本質との間に、
ある種の近縁性があることを示唆している」と述べている。

 一時期、ニュー・サイエンスと呼ばれた運動があった。
これは1960年代のカウンター・カルチャーの潮流の中で出てきたもので、
西欧合理主義が生み出した近代科学が、自然を分析的にとらえることを反省し、
もっとトータルにとらえるべきだ、それには東洋思想に学ぶべきだ、
というようなことをいっていた。
その中で量子力学とタオ(老子)思想の近親性が強調されたりした。
しかしその潮流から何かが生み出されたとは寡聞にしてきかない。
どちらかというと神秘主義とかオカルトの方向へ流れていったのではないか。

確かに量子力学の解釈問題、観測問題は、最終的な結論に至っていないようだ。
しかし、ほとんどの科学者たちは、そんなことはお構いなしに、
量子力学を道具として使いこなし、科学を進めてきている。
プラグマティックに過ぎるともいえるが、科学を超えた妙なものを、
そこに読み込まない方が無難だ。
科学と思想(これは文学や宗教も含めていっているのだが)とは、
同じ人間の活動として、ひとつのまとまり、というか、
つじつま合わせが必要だとは、感じている。
しかし、当面、科学は科学、どちらかというとそれは道具のひとつ、
人が生きることは別、と考えることにしている。


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